平成16年7月13日午後1時15分、数日前から降り続いた雨による増水で、五十嵐川の堤防が限界を超え三条市諏訪地内が破堤、一気に嵐南地域を濁流が飲み込み、未曾有の災害をもたらした。
人々の生活や財産などあらゆる物を飲み込んだこの水害は、9人もの尊い命も奪い去り、大きな爪跡を残しており、いまなお市民の傷は癒えていない。
今思えば被災当時、人々はただただ復旧に追われる毎日で、命を落とされた方々への哀悼の意を唱える余裕すら無かったと思う。
当時、水害の被害が少なかった嵐北地域に住む私達は被災者への生活支援に奔放したものの、まだ心に余裕があった。
支援をしている中で、水害で犠牲になられた方々の無念を一日も早く晴らしてやりたいという気持ちが自然に湧き起こり慰霊碑建立運動を決意した。
亡くなられた方々には怨念の川であろう五十嵐川も、私にとっては恩恵を受ける川であり、秋になると川を遡上する鮭を使った出汁でラーメン作って販売、毎年の販売開始日にチャリティーラーメンを行い、その時々に起こった災害の義援に充てて来た。
この年は、水害の打撃ですっかり川も荒れ、復旧工事で濁り返った五十嵐川に鮭の遡上が危ぶまれたが、鮭は見事に母なる川に戻ってきた。
この鮭たちにも元気付けられ、この年からは水害犠牲者の慰霊碑建立という目標でチャリティーや義援募金活動を開始した。
当初は、大きな慰霊碑は無理なら、せめて小さなお地蔵様だけでもと願い、不安の気持ちの中でイベントを続けた。
しかし、そんなチャリティー活動の中で心強い応援の力をいただいた。
お地蔵様を造ると言ってもどんな手段があるのか。
模索する中、新聞で知った仏画の本庄基晃先生に失礼をかえりみず、お地蔵様の下絵を描いていただけないかと思い切ってお願いをしてみた。
突然訪ねた私に、先生は 『その時はいつでも言ってください無償で協力しますよ』 という温かい言葉をかけてくださり、挙句に 『仏画を差し上げるのでチャリティーに使ってください』 という思ってもみなかったお言葉もいただいた。
今思えば、あの時の本庄先生の温かい言葉が私の気持ちの支えになっていたと思う。
流石に、お言葉に甘えることは出来なかったが・・・・(笑)
一昨年、それまで私の活動を見続けていてくれたロータリークラブ会員の友人が私の非力を心配し『水害当時、全国のロータリークラブから寄せられた義援金の中で余裕があるらしいので災害時に会長を務めておられたマルソーの渡辺喜彦会長さんにお願いしてやるよ』と申し出てくれた。
正直、この先何年続けたら念願が叶うのかと心細かった私の気持ちが、もう完成したかのように晴れ晴れとしたのを覚えている。(笑)
その年の7/13には、本成寺で犠牲者の法要を執り行い本格的に市や県を巻き込む計画がスタートした。
私は、この時点で自分の役割は終えたと思っていたが、渡辺会長さんからは災害メモリアルパーク予定地や記念碑の設計図面などが出来上がるたびに書類を届けていただき、渡辺会長さんの実行力と熱意、心配りにただただ感心するだけで、自分が始めた運動であることも忘れ慰霊碑の完成を心待ちにする一市民になっていた。
水害から5年目のこの日、決壊現場に完成した「水害復興記念公園」で執り行われた慰霊祭には災害で命を落とされた方のご遺族や県知事、地元選出の国会議員、国定市長や被災した地元の自治会長さんなどのほか多くの方々が参列。
5年前のあの日を思い起こさせる朝からの大荒れの天候も、慰霊祭の開始時刻に合わせるかのように雨も上がり、無事に慰霊祭を終えることができた。
この慰霊祭には私も参列させていただいたものの、あろうことか、最前列に自分の席が用意されているとは思っておらず、身に余る光栄に恐縮しっぱなしであった。
慰霊碑の除幕、献花の際には国定市長さんから『一緒に行きましょう』とお声がけをいただき、市長さんと並んで行ったことは私の一生の思い出になることだろう。
慰霊碑には、亡くなられた9名の方々のご冥福を祈り、二度とこの様な災害が起きることの無いようにと願い込めて合掌をした。
チャリティーラーメンの度に 『父親が生前、水害犠牲者の為の活動があったら寄付をしてくれと遺言を残しているので』 と毎回2万円もの寄付を届けてくれた方や、毎年必ずチャリティーラーメンの日に来店し、過分のチャリティーをしてくれたネット仲間の方々。
ネットで知り合いになったシャンソン歌手の清水康子さんからは、新しく発売したCDアルバムの売り上げの半分をチャリティーに充ててという嬉しい協力をいただき、また、自らも水害の被災者であり、地域の自治会長を務ておられる南新保の陶芸愛好家の伊藤得三さんからは作品のチャリティー販売の協力もいただいた。
多くの方々に支えられ、この晴れがましい日を迎えられたことにあらためて感謝感謝である。
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